登記簿と公図のルーツ

境界とその見分け方
土地の面積計算にあたっては、どこからどこまでの範囲を対象とすべきかを最初に確定する必要があります。
そして、その範囲を特定するためには隣接地との境界線が定まっていることが前提です。
 日常生活で境界問題が取り上げられる場合、多くは土地の売買時における境界立会などでしょう。一般の人にとっては、このようなケースにでも遭遇しない限り、境界そのものを意識する機会は少ないでしょう。
しかし、各地番を対象として、固定資産税評価額が計算され、これを基に税が賦課されていることを考えると、その背景にある境界の性格や見分け方などについて理解を深めておくことは、有益なことでしょう。
 登記簿の面積が実測面積と相違するケースのほうが多いにもかかわらず、不動産登記法が本来要求する精度の高い図面(法14条地図)の整備はなかなか進んでいません。このため、現在でも登記簿の面積を課税面積として採用せざるを得ないのです。

 以上の事実を踏まえて、

  1.  境界を見分ける際に参考にされる公図が、明治の地租改正時に作製されたものである
    (今から140年前)
  2. 登記簿の地番や地積(面積)も、当時付されたものを引き継いで現在に至っていること

を御確認していただき、登記簿に記載されている地積(面積)は、国が保証している面積ではないという事実を知っていただきたいのです。
もちろん、当時の測量図、登記簿の面積が間違っているということではありません。それは当時の適正な精度で測量された成果なのです。
ただ、現在の機械で再度測量をすると、面積が変わる可能性があるということです。
以下にその理由を述べます。

境界確定資料としての公図の位置付け
隣接者同士で境界確定をするにあたっては、境界標識の存在が有力なよりどころとなりますが、これのみでは客観的な資料として十分ではなく、図面等を基にした合理的な根拠づけを行って確定することが望ましいと思います。また、現地で境界標識が発見(確認)できる場合はまだしも、見つからないケースも数多く経験します。
手元に精度の高い図面(14条地図)が用意できれば、境界の確認時に最も説得力の高い資料になりますが、現時点では残念ながらこのような図面が法務局に備わっているケースは少ないです。そこで、それに準ずるものとして、これまで公図が活用されてきましたが、その精度は高いとは言えません。
ただ、現実に境界確定の参考に活用しうる図面は何かということになった場合、(隣接者との境界立会を経て作成された実測図が備わっている場合を除き)公図のほかに見当たらないのも事実です。公図の特徴としては、面積や長さの面で精度が劣るものの、境界線が直線であるか曲線であるかという形状的な面では、かなり実態を反映していると考えられています。
このことは、公図が作成された経緯を調べればある程度理解できます。中でも重要なものは明治6年の地租改正であり、次の点がポイントに思われます。

  1. 従来禁止されていた土地の売買が地租改正により認められた。
  2. 全国に所在する土地について、1筆ごとに所有者を明確にして地番を付し、土地所有者には
    地券を交付した。
  3. 地租が物納制から金納制に変更された。

以下、土地の境界や面積との関連でまとめてみます。


(1)土地の永代売買禁止の解除
地租改正が問題とされる際、これに先立つ歴史的事実として、土地の永代売買禁止の解除をあげることができます。これは、1643年(江戸時代)に制定された田畑永代売買の禁止令から230年もの長い間、農民の土地所有に対する制限が課せられてきました。しかし、明治維新によりこの制度を撤廃したのです。
江戸時代において田畑を売買した場合の罰則は、

  1. 売主は入牢(にゅうろう)の上で追放処分を受ける。
    (本人が死亡している場合は子供も同罪)
  2. 買い主も同様に入牢する(本人が死亡している場合は子供も同罪)とともに、買い取った
    田畑は領主が没収する。
  3. 売買を確認した証人も入牢するが、その子供には罪は及ばない。

というものです。このような事実から、明治維新に至るまで、土地の売買行為に関しては、今では考えられない制限が設けられていたのです。
田畑永代売買の禁止令の制定目的は、農民相互の売買行為によって、領主権が犯されることを防ぐためと言われています。

公図、境界との関連
日ごろ、土地の調査や測量を行うにあたり、公図は重要な資料です。一つの土地の範囲は売買や利用方法の変化によって広くもなれば狭くもなります(しばしば行われる「分筆・合筆」という手続きは、このような状況の変化を図面の上に反映させるものです)。
このように、現在では、個々の区画の上に地番の付された公図を主なよりどころとして対象地の確定をしています。このようなことが可能になっているのも、田畑永代売買禁止令の解除によって土地所有の自由が保障され、個々の土地に地番が付されるようになったからにほかなりません。


(2)地番の付与と地券の交付
地租改正の実施にあたっては、1筆ごとに土地を点検(調査)して測量し、地番を付す作業が行われました。それまでの石高の所有者が土地所有者とされ、土地所有者には地券が与えられました。地租改正の意義は、なんといっても地券制度の創設を抜きには考えられないでしょう。
地券を有することは所有者の証しであるとされ、これにより所有権を他人に主張できる手段とみなされることとなった(売買時に、地券の裏面にその事由と新しい所有者を記載し、所有権移転の事実を証明した)のです。
個々の地券の発行に先立ち、日本全国における膨大な数の土地を測量する必要が生じ、このことが土地面積の調査や、図面の作製へと向かわせたのです。

土地の調査と測量
地租改正の初期には個々の土地の点検調査や測量が行われましたが、これは当時、地押(じおし)丈量(じょうりょう)と呼ばれていました。
これにより、全国の土地に番号(地番)が付されていったのです。
点検の方法については、検地(農民から年貢をとりたてるため、田畑の面積や収穫高を調べること)がもっぱら官吏によって行われていたのに対し、地押丈量はすべてを人民に行わせたという点に大きな特徴があります。当然、人民には測量能力は備わっておらず、それを政府が指導したとされます。
 それにもかかわらず、改租作業が思った以上に円滑に進んだ理由として、農民が自己の所有地の測量を通じて権利意識を高めたことが、地租改正の原動力となったと各方面から指摘されていま
す。 
 しかし、測量面積の精度は雑でした。それは、測量には素人に近い人が行ったこと、測量が課税目的だったために人民が面積を過少申告する傾向がみられたからです。
 このようにして、土地の所有を認めてほしい人民が、自ら又は専門家により図面を作成し、これを官吏により一筆ごとに検地帳と照合することにより実施され、これにより土地の境界・範囲・面積等が明らかにされました。そして、地券に地積・地価・地租が記載されることにより、地租徴収に利用されました。地券台帳が課税台帳として利用され、その後土地台帳に移行し、現在の不動産登記簿(表題部)に移行しました。
 したがって、明治の地租改正事業(明治6年~明治21年)により測量され、特定された面積(原始筆界)が、現在の登記面積となっているのです。
[区画整理・耕地整理・土地改良・国土調査が実施された土地(後発原始筆界)もしくは地積更正・分筆登記により手続きされた土地(創設筆界)を除きます]

公図、境界との関連
以上のような経緯をみると、公図や登記簿の記載が必ずしも実態を反映していない理由がわかってきます。ただ、都市部では合っている場合も多く、先入観にとらわれない見方が必要でしょう。
地券を作成するために測量した結果が当時の図面に反映され、これが後日、公図へ引き継がれていったのです。


(3)地租の物納制度から金納制度への変更
地租改正の重要点の一つは、従来から物納により徴収していた地租を金納に変更したところです。1873(明治6)年7月の地租改正条例に基づく変更点は、

  1. 従来の年貢は、土地から得られる収穫高を基準として賦課し、田については米納、
    畑については現物を取り立てていたが、これを地価に応じてすべて金納とした。
  2. 税率は地価の3%とした(このため、従来のように収穫高によって地租が左右される
    ことはなくなった)。
  3. 従来、年貢は実際に農業を営んでいる者を対象としたが、これを土地所有者に改めた。

地価はどのようにして決定したかというと、
「地価は収穫から種肥代(生産費)と地租・地方税を引いた収益を利子率で資本還元して計算する」ものとされていました。

公図、境界との関連

地租の納付制度そのものは直接的に公図や境界と関連する部分はありません。しかし、地租の徴収が収穫高から、地価を基準とした金納制に変更したので、地価算定の基準とすべき地積(面積)について、検地の時代以上に正確性が求められました。
先に述べたとおり、課税目的での測量(しかも人民による成果の申告)・測量技術等の問題があり、思ったほど正確な図面は作製されませんでしたが、このような作業が行われたのも、地租徴収制度の変更によるものだったのです。

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